青色LED騒動私見

ずいぶんと間が空いてしまいましたね。

 

ノーベル賞発表で、青色LED裁判が再度脚光を浴びましたね。

世間で言われているこの裁判の構造が、どうも私の理解と一致しないので、「こういうことだったんじゃないの?」と考えていることを記します。

 

まず事実確認と双方の主張について。

これについてはいろいろなところで書かれていますので、リンクを張るだけにしておきます。

chem-stationさんの記事が中立の立場でまとまっていたのでこちらをお読みください。

なぜ青色LEDがノーベル賞なのか?ー雑記編 - 化学者のつぶやき -Chem-Station-

中村裁判 - Tech-On! (日亜主張)

中村裁判 - Tech-On! (中村氏主張)

 

まず大前提です。

ノーベル賞をとるような研究をしていたのに2万円しか払わなかった日亜はブラック企業

「自由に研究させてもらう環境と地方企業としては破格な賞与をもらっていたのにそれで満足しない中村氏は強欲」

などの意見は、この問題のごく表層しか見ていません。

青色LEDの研究は

0から1を生み出した天野、赤崎氏

1を100にした中村氏

1000のものをうみだした日亜社員含む他の研究者たち

という3者の努力により進んだものです。

 

特許に関してみると中村氏の主張する特許は日亜にとって価値はほぼなく、中村氏の貢献が低いとされている「1000のもの」に関する特許が日亜に利益をもたらしている、というのが事実のようです。

では、中村氏はノーベル賞に値する研究を行っていないのでしょうか?

私はそうは思いません。中村氏がノーベル賞を受賞した理由として筆頭執筆者として中村氏がすべての日亜の研究に関する論文(論文だけ見ると1から1000まで中村氏が研究を行ったように見える)を発表していたことは大きな理由でしょうが、ノーベル賞の性質として、実際の製品製造には使われていないにしろ、1から100にした中村氏の貢献を大きなものと見た、ということでしょう。

 

ここに、研究の歴史における価値と企業における価値の差があります。

企業においては、利益を生み出すのは製品として売れているもの。そして、同様の効果をもたらす100点のものと1000点のものがあった場合、製品にするのは1000点のものです。(何を100点とし、何を1000点とするか、は大きな問題ですが青色LEDに関していえば安定して大量生産できることと、高輝度であることが大きな得点軸となっています) 

「二位じゃだめ」なんです。

 

しかし、正しい研究の筋道からいうと0から1ができて、すぐに1000ができるわけではありません。10や100を経由して、1000になるのが通常です。

そして、非常に苦労して1000を生み出しても、すぐに1001が生み出されて負けてしまう、というのも現実です。

後になって振り返ると100なんて大したことがなくても、その時点では大きな意味をもっていることがあるのです。

 

この研究の筋道をうまく評価に乗せられていない、というのが中村氏の主張の根源ではないでしょうか。

しかし、これは日亜がどう、というものではなく、会社の研究成果の評価方法として、どこも取り入れていないものでしょう。

なぜなら、このことを評価するのが非常に難しいからです。

まず、この研究は1よりはすぐれているけれど2なのか、100なのか、を定量的に評価することが難しいですし、100を生み出した人がその時点で独立した場合1000を生み出すことができるのか、100を生み出す人がいなかったときに1000はうまれてきたのか、誰にもわからないからです。

 

 

中村氏がテレビのインタビューで「日本もベンチャーとかを気軽に立ち上げられる風土なら…」と言っているのを聞きました。

自分が100を1000にできるのかどうか、きちんとわかる形で研究を進めたかったのでは、と思います。

 

青色LED裁判とノーベル賞の評価の齟齬は、日亜が悪い、中村氏が間違っている、という安直な問題ではなく、現在の特許制度、社会の在り方の限界を示してるのだと思います。